The Shape of Water(改訂版)

私が2018年日本公開作品の中で10/12までに観た映画の中で一番面白かったものは Guillermo del Toro監督作 “The Shape of Water”. 冷戦時代のファンタジーとして描かれるが, それは発話障害者とある水の中からの使者との間の出来事についてのお話である.

ここで言う “The Shape of Water” とは何のことだろう?Water = 水とは, 本来特定のShape = 形を持たないものである. ところで, 古代ギリシャの最古の哲学者の一人, タレスは「万物の根源は水である」と述べた. 後のアリストテレス四元素説, 火水土風の中で「水」を液体だと捉え, フランス革命前夜にラヴォアジエが「元素」と「熱力学に基づく物質の三態」の概念を分けたので, タレスが言いたいのは化合物H2Oのことではなく物質の液相のことだろう. タレスは全ての物は水より生じ水に帰すと考えたので, それをこの映画に当て嵌めるならば水は人類の揺りかごかつ一生離れられない捉えどころがなく可塑的な環境の総体とでも言うべきだろうか. 人々の思索, 外界やテキストなどの情報の解釈, 特定の文化間の共通点や相違点, 相互作用, それらの全てが「水」として捉えられる. それは確かにShape = 形をはっきりと捉えることは出来ないが, 実際の水のように長距離秩序は無くても短距離秩序はあるので, 映画の視聴者はそこに「何か」の流れを感じることが出来る. 定冠詞 “The” は, そのような流れの中でも, 特に異文化に属している人たちが偶々出会った時によく起こる話であることを示すのだろう. 何らかの形の「マイノリティー」が存在する時, こういう事件は起こる. 水からの怪物だけでは無く, 物語に登場する人物の置かれている環境の流れ全てが「水」としての考慮の対象になる. ストリックランドの語る「まともさ」, ホイト元帥の語る「まともさ」, 他者を寄せ付けないまともさもそうである.

映画のラストでは, 怪物の持つある特殊能力を間近に見たストリックランドが「お前は神なのか?」と呟く(そして声を失う)シーンがある. 話の中で何回も示唆されていたが, この場合の「神」とは何だろうか?ストリックランドのごとくキリスト教, 特に『ヨハネによる福音書』の「序」に拘って考えるのならば, 「み言葉」が「神」だったのである(詳細は後述する). み言葉の内に「命」があり, これが人間の「光」であると. 怪物の特殊能力の中に「命」に関わるもの, そして「光」を見たストリックランドならではの台詞だろう. しかし新約聖書を体現しているかのような存在が一見怪物にしか見えず自分の想像とは全く異なる所に, 自分自身のキリスト教を騙る暴力的な世界と価値観に閉じこもって生きて来たストリックランドは混乱を覚える. 物語の結末は聖書にあるように闇は光を理解しないまま, 怪物が去って行く形で幕を閉じる(または, これは単なる「序」の冒頭に過ぎない). その後のシーンは語り手であるジャイルズの単なる願望であろう.

「み言葉」はギリシャ語ではロゴスであり, キリスト教では神の御ひとり子のイエス・キリストを意味するが, 元々は言の他に真理や理性, 論理, 自然, 運命など多種多様な意味を持つ言葉で, そこに何とも形容しがたいある種の秩序を見た時, ロゴスという言葉が使われたのだろう. 一方, 物語はその対義語であるミュトスであり, 必然的に神を表せないことになる. 怪物とは一体何者だったのか, 何故普通の人間にとっては一見異様にしか見えない形で現れたのかが結局不明のまま終わるのも, このミュトスとしての物語の限界を示している. ミュトスというのは空想的な詩であり, 全ての物を論理的に整合的に示した科学理論では無く, 常に遊びが存在しているのである. 何かが見えるような気はしても水が結局は不定形なのも, この映画自体の「遊び」を示している. それはこの物語の中に登場する物語, 怪物が凝視する劇中劇においても, そしてラストで明示される詩においても同様である. しかし, ジャイルズにとってはそれでも自分の絵の質を一変させるほどの出来事であったようである. ラストの「愛に包まれる」という表現は父なる神のみ言葉である子が担う聖霊(愛)の為す三位一体の表現である. 映画の題名の “The” という定冠詞には “The Bible” でbibleを修飾するtheと同じ意味合いもあるのかも知れない.

映画のセットとの兼ね合いで生まれるシンプルながら力強い照明, 水の流れのように滑らかに動いて移動するカメラワーク, 人間の美しさや醜さの一方を強調するのでなく清濁を合わせたリアリティのある人物造形がこういう物語に力強さを与えていた.

このように, 映画のごく一部を取り上げるだけでもその世界観の深さや面白さに興味は尽きないところが, この映画を面白いと思った理由である.

ところで, 世の中には『魔法少女まどか☆マギカ』という同じダーク・ファンタジーに属する物語もあって, 人間の世界の裏にキュゥべえたちが暗躍する魔法の世界があることになっており, そこでは人間はキュゥべえたちのある目的に沿った操り人形に過ぎない. まどか=キュゥべえではないし, ほむほむは執拗にキュゥべえを付け狙うし, また魔法少女とは言え元々はただの人間であるほむほむにはキュゥべえたちをどうすることも出来ず, ある種の共生をするしかないことも分かっている. 何かをもって「神」とみなすか, 「悪魔」とみなすか, それともそれ以外の名称で呼ぶかは人それぞれだが, シンプルな物語の中にそういう名称を超えたある現実的な理念が『魔法少女まどか☆マギカ』にはあるので, 高い評価に繋がっているように思える. 言わば, “The Shape of Water” よりももう一歩踏み込んだ表現が根底にある.