薔薇の名前(Il Nome della Rose)

Sir Thomas Sean Conneryが亡くなられたので,その追悼としてUmberto Eco著・河島英昭訳『薔薇の名前(Il Nome della Rosa)』(東京創元社)を読みました.そして映画 “Le Nom de la Rose” も観ました.中世の修道院図書館で起きる連続殺人事件と,それと並行する西ヨーロッパ世界の教皇・皇帝の争いを題材にした有名な小説ですね.活版印刷の技術が確立する前なので修道院図書館では図書を取り寄せては写本して返して蔵書を増やすなどと古代アレクサンドリア図書館からの伝統(アレクサンドリアではオリジナルを手元に置いて写本の方を返却していたそうです)を受け継いでいたり,貸し出しが限定的なことを前提にした図書館サービスをしていたりと,後年の映画と共に司書の間でも有名な話です.

映画は先ず英語で皆喋っているのに違和感があり(場所はイタリア),小説とは大分筋が違って哲学的要素も薄くなっていました.異端審問官には力が無く,異端審問の本当の怖さも薄れていました.付属のドイツ語のドキュメンタリーでイタリア語やフランス語で喋っているのが同時通訳でドイツ語になり,字幕は英語なのが劇中のサルヴァトーレの言葉を聴いているみたいで面白かったです.実際,劇中のサルヴァトーレの言葉にそのカオスぶりは良く出ていました.以降は主に小説に基づいて述べます.

 

プロローグの冒頭に,こういう文章があります.

 

「初めに言葉があった.言葉は神とともにあり,言葉は神であった.これは初めから神とともにあった,そして敬虔な修道僧の務めとは異論のない真理と断言しうる修正不可能な唯一の事件を慎ましやかな頌読によって日々に反覆することであろう.それなのに<私タチハイマハ鏡にオボロニ映ッタモノヲ見テイル>.そして真理は,面と向かって現れてくるまえに,切れぎれに(ああ,なんと判読しがたいことか)この世の過誤のうちに現われてきてしまう.それゆえ私たちは片々たる忠実な表象を,たとえそれらが胡散臭い外見を取ってひたすら悪をめざす意志にまみれているように見えても,丹念に読み抜かねばならない.」

 

これはこの小説の最後のパート「最後の紙片」とも共鳴していて,情報とは何らかの「記号」である事物の断片であり,それを繋ぎ合わせて適当な真理を暴くことの難しさ,時には不可能にも思えることを如実に表しています.作中に異端審問の場面がありますが,異端審問官には先ず結論が先にあって,それに合わせて全てを解釈しようとすることが描写されています.何も知らない人からすれば一見それらしく見えても,それは真実ではないのですね.主人公の師,ウィリアムだけがロジャー・ベーコン(経験知や実験観察を重視した)に感化された,「記号」を基軸にあらゆる可能性を考慮し,それらを消去法で一つずつ消していって最後の一つの真実にたどり着く過程を辿り,他の修道士たちとは異なる論理展開をしています.ウィリアムは「宇宙のすばらしさは多様性のうちの統一性にあるばかりでなく,統一性のうちの多様性にもあるのだ」とも言っていて,中世14世紀に果たしてこんな先駆的人物がいたのか謎だと思われるほどです.ウィリアムはまた「神の意図はやがて聖なる自然の魔術すなわち機械の科学となって実現されてゆくであろう」とも述べています.マン島の妖精物語の預言者の話『カリァッグ・ナ・フェージャッグ』にも似たような記述がありました.

 

ウィリアムが癩病人の話を持ち出して異端審問のことを示唆していた描写として,こういう言葉があります.「外へ排除された癩病人は,自分たちの破滅のなかへ,誰でも引き込みたいのだ.そしておまえが彼らを排除すればするほど,彼らはいっそう邪悪な存在になってゆき,またおまえの破滅を望んで群がり住む,亡霊のごとくに彼らをみなせば,みなすほどいっそう,彼らは排除された存在になってしまうだろう.聖フランチェスコはこの点を見抜いた.だからこそ彼の最初の選択は,癩病人たちの群れに混ざって暮らすことだった.排除された者たちを内部に組み込まなければ,神の民は変わらないのだ」.Joe Biden氏も,ご自分の言葉を守って下さると良いですね.統率者が大事なことはクライマックスの修道院炎上での「農民たちと,学識豊かで,しかし無能きわまりない,人びとの群れが,統率者を持たないばかりに,せっかく後からやってきた援助の手立ても効果をあげ得ないまま,虚しく事態を紛糾させていくのだった.」に現れています.文書館も燃える,即ち学術的知見も失われることが暗示されています.反キリストは無神論者からではなく,キリスト者の中から,結論はさて置き論理構成の手法としては異端と同化してしまった異端審問者などの中から現れやすいことも示唆されます.敬虔の念,神もしくは真実への過多の愛から生まれて来るとされています.

 

この物語は最終的にはアリストレスの失われた『詩学』の第二部,喜劇と「笑い」の話になります.この小説の内部や各パートの区切りごとにジョークのような終わり方をしていることが,最後で伏線であったことが示されます.この事件の犯人とも犯人でないとも言えない中心人物  “放屁” (ウィリアム曰く,「一連の原因の鎖が,原因から派生した原因の鎖が,相互に矛盾する原因の鎖が,つぎつぎにたぐられていくと,それらが勝手に独り歩きをして,初期の企みとは無縁な別個の諸関係を生み出してしまうのだった.わたしの知恵など,どこに居場所があろうか?わたくしは頑に振る舞っただけのことだ,見せかけの秩序を追いながら,本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであったのに」)は反キリストのように「笑い」を否定したことになっており,一方でこの小説では「笑い」こそがヒトをその他の動物と区別出来るものだとしています.実際には「笑い」自体は善でも悪でもなく,その使用される文脈により是非が判断されるべきものでしょうし,笑いのようなものは類人猿にもあります(類人猿はヒトとは違うので,類人猿を研究してもヒトのことは分からないという言説は,今まで蓄積されてきた膨大な数値データを無視した,最早誤りと言ってもいい言説です.「ヒト固有」とされてきた特徴が実はヒト固有ではないということが今まで数多く見つかっており,両者は隔絶したものではないことが科学的に論じられています.).記号論の大家のUmberto Ecoは「笑い」は善なるものとしていますが,一方ではTolkienの物語の中でMorgothやSauronが笑う印象的シーンがあることからは,Tolkienの頭の中では少なくとも「笑い」に揶揄や罵倒的な意味での冥王的要素が付与されることがあることも示されています.

ただ,ウィリアムの台詞,「人びとを愛する者の務めは,真理を笑わせることによって,真理が笑うようにさせることであろう.なぜなら,真理に対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと,それこそが唯一の真理であるから」には一定の説得力があります.

 

小説の最後の方で「<神トハタダ無ナノダ.今モ,コノ場所モ,ソレヲ動カサナイノダカラ……>」という記述があります.何を見ても自分の思い違いや錯覚,幻覚かも知れないという思いがそこにあるかも知れません.しかし,幻覚と幻覚でない事象を識別する手段を持ち,尚且つそこから幻覚でない(神かどうかはさて置き)何らかの真理を導き出した時,何らかの安堵感を得ると同時に何かの出発点に立つこともあるでしょう.『薔薇の名前(Il Nome della Rosa)』はそれ自体面白い小説ではありますが,異論はいろいろあると思います.