『風立ちぬ』評

宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』について,階級差や性差,地域差などに注目した短い評論を書いてみました.

 

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宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』の登場人物にはエリート・庶民などという階級差,男性・女性という性差,欧米先進国・日本という地域差がある.主な登場人物は日本のエリート男性である堀越二郎,欧米のエリート男性カプローニ,日本の上流階級の女性里見菜穂子,日本の庶民女性絹,日本のエリート男性黒川,日本のエリート女性加代である.階級差に着目すると,エリートである二郎,カプローニ,黒川は皆飛行機開発に携わるなど夢を持っている.それを上流階級の菜穂子は微笑ましく思って応援するが,庶民の絹は菜穂子の恋を応援する.エリートである二郎の妹の加代にも医者になるという夢がある.一方,親の帰りを待つ庶民の子供たちは二郎があげようとしたシベリアを拒絶するなど,二郎の夢との間には分断がある.エリートが消費するお金と庶民感覚のお金との間にはスケールの大きな異なりがある.性差に着目すると,男性である二郎,カプローニ,黒川は皆飛行機開発に携わるなど夢を持っているのに対し,女性である菜穂子と絹はそれを応援する立場で,この時代にあった男性中心主義を描いていることを伺える.それに対し,加代の存在がアンチテーゼとなっている.菜穂子の採った夫を支える姿勢はそのまま誉められるものではない.エリートは男性に限るということになってしまう.一方,欧米からはカプローニが,日本からはそれ以外の登場人物が登場するが,カプローニがオドロオドロしいSEと爆撃機を背景に出現した時は,『ファウスト』のメフィストフェレスか『魔の山』のセテムブリーニみたいな人物が現れたようになる.実際,映画パンフレットには宮崎監督はメフィストフェレスを意識していたと書かれている.『魔の山』に至ってはカストルプ氏という主人公そのままの名前の人物がストーリー中に登場し,『魔の山』という作品名自体も出てくる.彼は都合の悪いことは忘れられることを示唆する.それに比較して三菱重工の重役や海軍士官の描写はコミカルだった.宮崎監督はこの映画が戦争を糾弾するものではないとしているが,二郎の冒頭の夢の中でドイツ空軍が異形の者と化したオドロオドロしい物体に飛行機を撃ち落とされたり,カストルプ氏の反戦思想(『魔の山』で主人公が第1次世界大戦に参加するため山を下りるのと対照的になる)や二郎が特高に追われることなど部分部分では反戦のメッセージを読み取ることが出来,全体としては混沌をなしている.こういった世界情勢が欧米から日本になだれ込んで来るのが大戦時という時代背景を的確に捉えた本作の特徴である.二郎は成長してからは飛行機の開発以外は何一つ正しいことをせず,妻の菜穂子を療養所から下界に戻す事を容認したり,菜穂子の側で煙草を吸ったりキスをしたりすることは合理的な行いではない.最終的には自分の夢で国を滅ぼすことに加担してしまった,とも言われる.二郎が破壊の先に行きついた地こそ,善悪や正義と悪の区別が付きにくい混沌とした世界に住む我々の目指すべき地平ではないかと思われる.そして映画こそが『魔の山』的な世界の混沌への入り口であり,カプローニが最後にいいワインを呑もうと言ったことに,救いのない無常観を只管噛み締める信念が伺える.「行きて帰りし」という言葉も出てくるが,帰って来ても元通りの人物にはならなかった庶民の二郎,遂に帰ってこなかった上流階級の菜穂子も,『ホビットの冒険』の物語と類似している.全体として,階級差や性差はステレオタイプだが,地域差の分析から分かるのは実在の航空技師である堀越二郎をモデルにしながらも原案を拝借した堀辰雄風立ちぬ』にもインスパイアされた文芸的・哲学的で斬新なフィクションである.