放送大学雑感2

今期は放送大学で『世界文学の古典を読む』という講義を受講しているが,今日は横山安由美先生の『アーサー王物語と聖杯の探索』という回だった.45分という短い講義ながら非常に充実した内容だった.

 

試しに学習課題に挑戦してみると,課題「あなたが作者だったら,聖杯探索にどのような結末を与えたいと思うか.また,あなたにとっての聖杯とは何か.(以下略)」に関しては,私が簡単に解答すると「帰って来なかった騎士のうちの一人が聖杯探索を達成し聖杯を手にしたが,そこで新たなる使命を受けて異世界へ旅立って行ったという噂が流れる中,世界が終焉へと向かって行くという結末を用意する.私にとっての聖杯とは「下層構造の利己性を維持したまま上層構造の利己性も上層構造のコストなしに達成するメカニズム」のことだ.」となる.

 

また,課題「アーサー王物語またはヨーロッパの民話のいずれかを読んで,旅や移動があらすじの展開にどのように役立っているのかを詳しく分析してみよう.」に関しては,私が簡単に解答すると「旅や移動は形而上的な価値の可視化への願望を具現化させることに役立っている.そして,「誰もが求めるものは誰にも得られない」という教訓が現れ,主観主義的・個人主義的な誘惑が秩序を崩壊させる.それには社会的ロールプレーが必要悪であるという認識が背景にある.」となる.

 

こう纏めてみると,『アーサー王物語』は叙述されている内容が中世ながら,テーマとしては現代小説にも共通のものがあることが伺える.社会主義個人主義は歴史の中でいつも両極端な状態として揺れ動いているので,現代も個人主義が行きすぎて来た結果として捉えることも出来る.少年時代に読んだ『アーサー王物語』の魅力を,現代的に上手く再構成されているようで面白かった.

 

このノリで私が今までに触れた物語の中で最も評価出来る三つについて述べる.Eugène Henri Paul Gauguinの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか (D’où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?)」に準えるのなら,最初がLewis Carollの “Alice’s Adventures in Wonderland/Through the Looking-Glass, and What Alice Found There/The Hunting of the Snark” などの一連の作品,次がGabriel José de la Concordia García Márquezの “Cien Años de Soledad”,最後がФёдор Миха́йлович Достое́вскийの “Братья Карамазовы” となる.

 

Lewis Carollの作品はナンセンス文学に含まれるが,その中の何某かの意味が含まれている断片的部分は,世界の成り立ちについてのメカニズムに満ち溢れている.「赤の女王仮説」など,むしろ文学の方が自然科学的事象のネーミングに取り入れられたものもある.そういった意味で,「我々はどこから来たのか」を考える材料として相応しい.“Cien Años de Soledad” は,そういった世界の中でどう足掻いても,結局はこうにしかなりませんよというストーリーを描いている時点で「我々は何者か」を考えるのに相応しい.“Братья Карамазовы” は,それらを踏まえた上で,実際のところ我々はどこへ向かうべきなのか,強いては「我々はどこへ行くのか」を考える取っ掛かりとなるのに相応しい.前二者に比べて最もファンタジー色の強いテーマなのに,表現として最もファンタジー色が薄く現実味があるのも評価出来る.Достое́вскийは “Братья Карамазовы” の続編を構想しながら“Братья Карамазовы” を執筆したらしいが,その死によって続編は出ず終いだった.しかし,その構想の取っ掛かりは “Братья Карамазовы” の中にもエッセンスとして既に含まれており,熱心なファンならその続きを夢想出来るだろう.

 

これらの三者は,人生の血となり肉となるのに相応しい三者であると思う.今日はそういうことを思い出させる日だった.