放送大学雑感6

今日の放送大学の講義『世界文学への招待』では,多和田葉子さんが取り上げられた.講師の野崎歓先生が微笑みながら授業されていたが,多和田葉子さんの小説はディストピアものでも思わず微笑んでしまうような言葉遊びがたくさんある.先生が微笑むのも当然だ.

 

一方,『世界文学の古典を読む』ではEdmund Spenserの “The Faerie Queene” が取り上げられた.以前,第I巻から第II巻の途中までを毎日1連ずつ原文と和訳,そして時々は解説を加えてtwitterに投稿したことがある.“The Faerie Queene” は,今まで『世界文学の古典を読む』で学んできた西洋古典文学の集大成のような詩篇だ.その詩としての形式は完成度が高く,引用に満ち,現実の寓話としての意味も深く持つ.第IV巻では先日の「ハヤブサ」という投稿で取り上げた, “The Canterbury Tales” の “The Squire’s Tale” に登場する(ハヤブサと会話する)CanaceeとCambellも登場する.第VI巻で登場する “The Blattant Beast” は,千枚の舌を持つ中傷や陰口を象徴する獣で,旧約聖書の『ダニエル書』や新約聖書の『黙示録』にも登場する.前回の投稿の「熱狂する群衆の霊」のようなものだ.若き日のArthurも出て来て,全六巻の主人公たち六人が一人一人持っている徳を全て備えた人物として描かれている.『アーサー王物語』では,旅や移動は形而上的な価値の可視化への願望を具現化させることに役立っている.そして,「誰もが求めるものは誰にも得られない」という教訓が現れ,主観主義的・個人主義的な誘惑が秩序を崩壊させる.それには社会的ロールプレーが必要悪であるという認識が背景にある.一方 “The Faerie Queene” では,旅や移動は形而上的な価値を得るための修練やその実現の形であり,少なくとも前の方の巻では騎士たちの目的は成就されている.社会的ロールプレーも必要悪ではなく,徳が重視されている.そういう違いはあるが,“The Faerie Queene” でも最後は “The Faerie Queene” のモデルであるElizabeth Iの治世へのSpenserの失望から破壊的な結末になる.最初は全十二巻の構想だったのが六巻と無常の二篇で切り上げられ完成したのも,植民地主義的なSpenserへの批判が原因となっているらしい.SpenserのIrelandでの政治が現代的な価値観から見てどうだったかは兎も角,彼の詩は素晴らしいものである.