放送大学雑感4

今期は放送大学で『世界文学への招待』という講義も受講しているが,今日は한강の『소년이 온다』とChimamanda Ngozi Adichieの “Half of a Yellow Sun” が取り上げられた.『소년이 온다』は光州事件を題材とし,“Half of a Yellow Sun” はビアフラ戦争を題材としている.共にこれらの事件を目撃した世代の次の世代に生まれた作者たちが書いた小説で,人の死をどう継承して行くかということを衝撃的なスタイルで重く描いている.こういうテーマの作品に定期的に触れることは重要だろう.今はロシアのウクライナへの侵攻が話題となっているが,虐殺という意味では世界のどこかでこういった争いは絶え間なく続いて来ている.今,ヨーロッパにもその影が忍び寄って現実化したというだけである.我々が我々自身をどう捉え,どう扱って行くかが問われている.

 

また,『文学批評への招待』という講義も受講している.今日はフェミニズム批評の第2回目として,Charlotte Brontë “Jane Eyre”, Charlotte Perkins Gilman “The Yellow Wall-paper. A Story”, Virginia Woolf “Mrs. Dalloway” が取り上げられた.フェミニズム批評の対象としてこれらの作品が取り上げられるのは説得力があり,作品にも一定の評価が与えられるのは勿論だ.だが,講義の内容で「安静療法」が否定的に取り上げられているのはいささかやり過ぎだと思った.精神医学における安静療法というものは,現代医学においてもごく一般的に処方される科学的裏付けのある治療法である.ある種の精神疾患の疑いのある患者に論理であれこれ言っても何も効果がなくむしろ症状を悪化させることもある.それで,患者にストレスを与えるような要因を取り除いた上で何もせず,時間をおいてみるということがとても有効な治療となることがある.さらに言えば,ちょっと太るくらいが生理学的に望ましい精神バランスを誘導することも分かっている.Virginia Woolfの場合など効果が弱かった事例もあるのは事実だが,「放っておいたら,勝手に治った」という事例は現実には事欠かない.確かにこのような病気は女性特有のものであるという当時の気風は誤っているし,女性であることから治療の停止のタイミングが遅かったとかそういうこともあるかも知れないが,Charlotte Perkins Gilmanの場合など症状から見て明らかに治療が必要そうな場合もある.当時の認識でそういう療法を提案するような医師は,当時の俗論には問題があったかも知れないが医師自身は真っ当な医師であったと思われる.テキストの書き方だと医学的に誤解が生じるのではないかと思った.

 

そういうことを思いながら今日の分の『世界文学の古典を読む』を受講すると,Michel Eyquem de Montaigneの “Essais” やClaude Lévi-Straussの “Le pensée sauvage” などが出てきて,偏見絡みで意図せずインターテクスチュアリティが生まれていた.横山安由美先生は安定の存在感だった.「先の第11章の聖杯探索は「何を求めているかはよくわかるが,どこへ行けばよいのかわからない」世界だった.それはキリスト教という普遍的な価値観が支配する中世社会においては,特定の地域や個が固有の価値をもちにくかったからだ.一方「何から逃げたいのかはよくわかっているが,何を求めているのかはわからない」という16世紀は,虚構としての<普遍>の行き詰まりに気づき,自分の力で大海原に漕ぎ出すことができた時代だった.」など,社会主義個人主義,ひいては普遍性と多様性との間での揺れうごきを見ているようで面白かった.2回しか講義をなさらないのが勿体無いくらいだった.