アオサギと莵道稚郎子

君たちはどう生きるか』のアオサギを見て,そう言えば前にアオサギについて触れた文章を書いたかなと思い,SSD内を検索して出て来た文章が2つあった.記憶の彼方にあった.

 

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仁徳天皇

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古事記下巻の最初の方には大雀命(大鷦鷯尊、仁徳天皇)に関して次の記述があります。「ここに天皇、高き山に登り四方の國を見て詔らさく、『國の中に烟發たず、國、皆、貧窮し。故、今より三年に至るまで悉く人民の課役を除け。』 是を以ちて大殿破れ壞れて悉く雨漏ると雖ども都て修理うこと勿し。はこを以ちて其の漏る雨を受け、漏らぬ處に遷り避りき。

 後に國の中を見るに國に烟滿ちき。 故、人民富めりと爲て、今は課役を科せき。 是を以ちて百姓榮え、役使に苦しまず。 故、其の御世を稱えて聖帝の世と謂う。」

ちなみに聖帝と言ってもサウザーではなくひじりのみかどと読みます。この時代はまだ貨幣経済ではないので財政出動などが出来なかったことも頭に置いておいて下さい。民が貧窮している時には租税を免除し、豊かになっている時に課税するという当たり前のことが4世紀頃?には行われていたようです。金融緩和で景気が上向いて来たとは言え景気が良いとはとても言えない状況で増税して景気の腰を折ったZ務省はおそらく1600年以上前からタイムスリップしてきた超古代人の集団なのでしょう。尚、仁徳天皇は日本で最初に大規模な土木工事を行ったともされています。

 

古事記日本書紀で大雀命と並んで有名なのが宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子皇子)です。宇遅能和紀郎子は大雀命の弟で、父の品陀和氣命(譽田天皇応神天皇)は宇遅能和紀郎子を皇太子としたのですが、早世(古事記)、もしくは兄に帝位を譲るために自殺(日本書紀)したために大雀命が天皇となったとされています。一説には天皇として即位していたという話や、仁徳天皇に毒殺されたという話もありますが定かではありません。名前の通り現在の宇治との関係が深く、大雀命の兄に当たる大山守命が品陀和氣命の死後に帝位を簒奪しようとした時に大山守命を宇治川で謀殺し、その時の心境を「ちはや人 菟道の渡に 渡手に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本辺は 君を思ひ出 末辺は 妹を思ひ出 悲けく そ こに思ひ 愛しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀」と詠っています。莵道の山に葬られた(日本書紀)とも散骨された(続日本後紀)ともされていますが、宮内庁は丸山古墳を整形して菟道稚郎子が葬られている宇治墓としています。私の実家の対岸にあって、繁殖期にはアオサギのコロニーと化しています。大雀命には速総別命(隼総別皇子)という弟もいましたが、自分が求婚した女鳥王(雌鳥皇女)と通じて背いた為に共に誅殺されます。仁徳天皇は鳥の名に深く関連した天皇だったのです。

 

宇治の宇治神社の祭神は莵道稚郎子、宇治上神社の方はそれに加えて応神天皇仁徳天皇となっています。古社や古墳には付き物のアラカシの森も周りにありますよ。

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莵道稚郎子

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今日は図書館の主催するイベントの勉強の一環として、宇治市中央図書館の主催する莵道稚郎子についての講演会に参加した。奈良盆地から京都盆地にかけての南北の平地は日本の東西交通の要衝なので日本の歴史にずっと関わってくる。その中で宇治には豪族の宇治連やその部民の宇治部が居て、4C末の渡来人集団の集落(宇治が政治的に重要視されていた証拠)や、県神社のように皇族の直轄地であったことを示す史跡もあり、伝説上の莵道稚郎子が何らかの形で有力者として実在していた可能性があるらしい。莵道稚郎子は応神天皇の子で母は木幡の豪族和邇氏の出とされているが、応神天皇の死後に異母兄の大山守を破り、大鷦鷯(後の仁徳天皇)と帝の位を譲り合った末に自殺したと伝わっている。アオサギのコロニーになっている現在の莵道稚郎子墓は明治時代に改修されたもの。実在説が疑問視されているのはこれが中国の故事に則っているように見えるからだが、平安中期の延喜式によれば長さ1.2 km(山全体?)の宇治墓という莵道稚郎子の墓が確かにあったらしい。『万葉集』では「妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ 嬬松の木は 古人見けむ」と読まれ、仏徳山の山頂に葬られていたとされていたが、そこにはまだ古墳は見つかっていない。麓には宇治二子山古墳という双円墳があるが、皇族のような前方後円墳でなく豪族相当の円墳であること、出土品が質素であること、100年で二基三代が葬られていることから、陪臣の墓と考えられるらしい。面白かったのが5C前半の北墳では鏡の魔力が信じられていて、鏡面を外に向けることにより邪鬼を払うとされていたが、5C後半の南墳ではもうそういう迷信も信じられなくなって鏡はただ入れられるだけになったとか、三環鈴という青銅製の魔除けの鈴が異例にも出土したり、当時の馬は実戦に使えるだけの数がなく、豪族自身が乗るためだけの見せかけのものだった(だから騎馬民族倭国を征服したというのは嘘)という話。他には莵道稚郎子は応神・仁徳天皇の時代の後の継体天皇の時代の謎の有力者(継体天皇が葬られている今城塚古墳の2/3のサイズの五ケ庄二子塚古墳の主で、継体天皇の後の宣化・安閑天皇が早逝し、元々の天皇系譜の武烈天皇の妹と継体天皇の息子の欽明天皇が後を継いだという逸話に莵道稚郎子の逸話が類似)をモデルにした説とか、莵道稚郎子の古墳は河内大古墳群の中で応神天皇陵と同型の陪墳の中にあるのかも知れないという説もあるらしい。継体天皇の系譜で天皇家がほとんど断絶したのではなく、武烈天皇の妹経由で血が繋がっているというのは知らなかった。結構deepな宇治トークだった。

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「莵道稚郎子墓」にあるアオサギのコロニーは有名です.