ブルカニロ博士のセロ

宮沢賢治銀河鉄道の夜』の初期形では,後期形にない以下のような文章が終盤で登場する.

 

***

 

「おまへはいつたい何を泣いてゐるの。ちよつとこつちをごらん。」

 

いままでたびたび聞えた、あのやさしいセロのやうな聲がジヨバンニのうしろから聞えました。  

 

ジヨバンニは、はつと思つて涙をはらつてそつちをふり向きました。  

 

さつきまでカムパネルラの坐つてゐた席に黒い大きな帽子をかぶつた青白い顏の痩せた大人が、やさしくわらつて大きな一册の本をもつてゐました。

 

「おまへのともだちがどこかへ行つたのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行つたのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」

 

「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといつしよにまつすぐに行かうと云つたんです。」

 

「ああ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいつしよに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。  

 

おまへがあふどんなひとでも、みんな何べんもおまへといつしよに苹果をたべたり汽車に乘つたりしたのだ。  

 

だからやつぱりおまへはさつき考へたやうに、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しよに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいつしよに行けるのだ。」

 

「ああぼくはきつとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでせう。」

 

「ああわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしつかりもつておいで。そして一しんに勉強しなけあいけない。おまへは化學をならつたらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知つてゐる。いまはだれだつてそれを疑やしない。實驗して見るとほんたうにさうなんだから。  

 

けれども昔はそれを水銀と鹽でできてゐると云つたり、水銀と硫黄でできてゐると云つたりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももし、おまへがほんたうに勉強して、實驗でちやんとほんたうの考へと、うその考へとを分けてしまへば、その實驗の方法さへきまれば、もう信仰も化學と同じやうになる。けれども、ね、ちよつとこの本をごらん。いいかい。これは地理と歴史の辭典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ。紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。  

 

だからこの頁一つが一册の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本當だ。さがすと證據もぞくぞくと出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。  

 

紀元前一千年。だいぶ地理も歴史も變つてるだらう。このときには斯うなのだ。變な顏してはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだつて考へだつて、天の川だつて汽車だつて歴史だつて、たださう感じてゐるだけなんだから、そらごらん、ぼくといつしよにすこしこころもちをしづかにしてごらん。いいか。」  

 

そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。  

 

するといきなりジヨバンニは自分といふものがじぶんの考へといふものが、汽車やその學者や天の川やみんないつしよにぽかつと光つて、しいんとなくなつてぽかつとともつてまたなくなつて、そしてその一つがぽかつとともるとあらゆる廣い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなはり、すつと消えるともうがらんとしたただもうそれつきりになつてしまふのを見ました。  

 

だんだんそれが早くなつて、まもなくすつかりもとのとほりになりました。

 

 「さあいいか。だからおまへの實驗はこのきれぎれの考へのはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレアデスが見える。おまへはあのプレアデスの鎖を解かなければならない。」  

 

そのときまつくらな地平線の向うから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ、汽車の中はすつかり明るくなりました。  

 

そしてのろしは高くそらにかかつて光りつづけました。

 

「ああマジエランの星雲だ。さあもうきつと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」  

 

ジヨバンニは唇を噛んで、そのいちばん幸福なそのひとのために、そのマジエランの星雲をのぞんで立ちました。

 

「さあ、切符をしつかり持つておいで。お前はもう夢の鐵道の中でなしに本當の世界の火やはげしい波の中を大股にまつすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたつた一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」  

 

あのセロのやうな聲がしたと思ふとジヨバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなつて風が吹き、自分はまつすぐに草の丘に立つてゐるのを見、また遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて來るのをききました。

 

「ありがたう。私は大へんいい實驗をした。私はこんなしづかな場所で、遠くから私の考へを人に傳へる實驗をしたいとさつき考へてゐた。お前の云つた言葉はみんな私の手帖にとつてある。さあ歸つておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまつすぐに進んで行くがいい。そしてこれから何でもいつでも私のところへ相談においでなさい。」

 

「僕きつとまつすぐに進みます。きつとほんたうの幸福を求めます。」  

 

ジヨバンニは力強く云ひました。

 

「ああではさよなら。これはさつきの切符です。」  

 

博士は小さく折つた緑いろの紙を、ジヨバンニのポケツトに入れました。  

 

そしてもうそのかたちは天氣輪の柱の向うに見えなくなつてゐました。

 

***

 

説明的な記述のためか後期形からは取り除かれたが,賢治の主張はここに要約されているらしい.