自己隔離期間の線型代数I

渕野昌先生の『自己隔離期間の線型代数I-線型代数からの数学入門』(1月と7月)という本を購入して読んだ.線型代数学の教科書としては,大学生の教養として自分が使いこなすツールとしての入口なら川久保勝夫先生の『線形代数学』(日本評論社)など,線型代数学としての学問の奥深さを知るなら佐武一郎先生の『線型代数学』(裳華房)などの名著がある.しかし渕野昌先生の『自己隔離期間の線型代数I』は,数理論理学がご専門の渕野先生ならではのしっかりとした論理展開をテキストやそのハイパーテキストとしての脚注,更には脚注の脚注などの読解を通して体感することが出来るという意味でユニークだと思う.式変形のかなりの部分もその根拠が明快に示されている.数学に限らず,自然科学系の本は読解を進める都度,これは何だっけ,あれはどうしてだっけと文の途中で他の情報ソースを次々と当たって行くことがメインになるが,その過程がこの本では上手く再現されている.メインテキストだけでなく,豊富な脚注や付録にもその真髄が含まれている.「付録B実数体の導入と角度の導入」などは,読めば私が普段如何にいい加減な思考しかしていないかがよく分かる仕掛けになっているので,数学書としてでなく単に読み物として読んでも面白い.他にも数学基礎論自体は登場してはいないが,集合や論理など基本的な概念の詳細な導入やアファイン写像などへの傾倒など,本書の特徴は色々ある.続刊となるIIでは「線型代数から数学の森に分け入る」,IIIでは「線型代数から物理学の宇宙を眺望する」などのテーマに移っていくらしいが,この本を読んで期待感が募るばかりだ.今後の展開が楽しみだ.

 

その他,この本の文化的特徴として,漫画家のpanpanyaさんが装丁を担い,挿絵なども担当されていることがある.渕野先生の言葉を借りると,panpanyaさんの作品は「見えたと思った内的な関連性が,作者の意図するものなのか,あるいは,鑑賞側の思い入れや錯覚に過ぎないのかが,定かにならず,実は,このような不定な認識の状況が,まさに,作品で意図されたことだったりする」という評価らしい.panpanyaさんは一年に一回ほど,白泉社からほんわりとしたストーリーの不思議なSF漫画小品集を出しているが,これがこの本にもよく合っている.panpanyaさんは以前,『岩波データサイエンス』シリーズでも漫画を載せておられたが,とうとう本格的な教科書の世界にもやって来られた.そもそも,『自己隔離期間の線型代数I』を出版している1月と7月自体も,panpanyaさんがその他全ての作品を出版した白泉社ではなく処女作『足摺り水族館』を出版した出版社で,マニアックなセレクションである.

https://www.1to7.jp/

を見れば,どういう出版社なのかが分かる.1月と7月は他にも理工系の本は出しているのかというと,嘉田勝先生が『論理学への数学的手引き』という翻訳本を出しておられるらしい.なかなか謎な出版社だ.『自己隔離期間の線型代数I』は大江健三郎さんが亡くなられた2023年3月3日に発行されたことになったが,渕野先生は文化的な柔らかいことにも造詣が深そうな方で,面白そうなのでこれからも続刊を読んで行きたい.ブックカバーの表もその中の表紙も装丁が凝っていて,栞紐まで味があり,補充注文カードにまで装丁があるので,電子版も活用するべきだが物理的な実体も一度は是非手に取って頂きたい.数学との不思議な出会いがそこにはありそうだ.