「詩の危機」を読む

ステファヌ・マラルメ『詩の危機』の一節に,次のようなものがある.

 

たとえば私が,花!と言う.すると,私のその声がいかなる輪郭をもそこへ追放する忘却状態とは別のところで,[声を聴く各自によって]認知されるしかじかの花々とは別の何ものかとして,[現実の]あらゆる花束の中には存在しない花,気持ちのよい,観念そのものである花が,音楽的に立ち昇るのである.(『マラルメ全集II』筑摩書房,1989,松室三郎訳)

 

この詩では「花!」と発声しているのは「私」自身である.「花」という言葉は勿論その声を聴く各自に共有されている語彙で,それぞれがそれぞれの相異なる「花」という認識を持っている.「私」は敢えて「花!」と自己主張することで,その何れとも異なる,自分にとって心地の良い観念上の「花」があることを,その発声の音を自分で聴くと同時に認識し,幸福感に満たされることが出来るというのである.ここで冒頭の解釈から飛ばした第2文の最初に戻ると,こういう「花」という概念に対して,常にそれを「忘却」している状態があり,それが仕事の忙しさなり何に起因するにしろ,自分の独自性を脅かす存在として常にあり続ける危険性に晒されていることが分かる.そういう自分を引き落とす存在に対する対抗策として,「花!」という発声が機能しているのである.そういう「ぼんやりとした不安」も含めつつ,この詩は自らをそれに対して奮い立たせているのである.しかし,この「花」は観念そのものなので,それに向かって手を伸ばせても決して手に取ることは出来ない.つまり,「ぼんやりとした不安」からは逃れようがない.そういう一抹の寂しさも,音楽的にしか存在しないその「花」という概念に沿って浮かび上がって来るのが最後の一文である.