劇場版PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE

アニメ映画『劇場版PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』を観に行った.前日は今までのシリーズのOPとEDの曲を聴いて期待感を上げた.これらはアニソンの鑑のようで,世界観が良く音と歌詞に昇華されている.

 

https://animemusicranking.com/ja/series/22/

 

凛として時雨」はPSYCHO-PASSの主題歌の代名詞ともなっているが,公式レコーディングの音をライブで再現するのは至難の業に思えるのによくやる.「EGOIST」は『ギルティクラウン』の頃からの付き合いだ.

 

以前,Twitterでこういうtweetsを分割して投稿したことがあった.

 

「『PSYCHO-PASS サイコパス』は今年も世界観が広がるだけで完結しないような気がするけど, 結末を迎える上で大きな鍵となるのが常守朱が今までどのように育ってきたかという点だと思う. 彼女の性格や人間関係, 非常に断片的な状況証拠から想像するしかないけど, 実は彼女のような才覚のある人物を効率よく輩出するシステムというのがシビュラそのものだと睨んでいる. だからシビュラと常守朱は単に相性がいいというだけではなく, その存在意義からして一蓮托生ということになると思う. そもそも正義や悪をどうwell-definedなものにするかとか, 個人とシステムの正義をその系の持続的再生産性の増加と捉えた時に個人と集団が完全に独立でもなければ全く同一でもないことから生じる一見バグのように見えることに関わって来ると思う. 世間一般の人が考える「正しい世界」は実は矛盾したもので, 論理的に整合的な世界を目指せばシビュラと常守朱を同時に是とするか非とするかしかない. 常守朱は時と条件が揃えばその性格からして必ずシビュラを非とすると同時に自らの存在意義をも否定する行動に出ると思うので, それを見ていた狡噛さんがどうするかという話になると思う. シビュラを停止させ常守朱も否定し彼女のような才覚のある人物が出て来れなくなるような世界を構築するか, それともシビュラを容認し常守朱を生かす代わりに自らは永遠に追われ続けられある種のディストピアのままにするか. どんなに小説を読んでも, その2つ以外の選択肢がないことがますます確信されてしまうようになる. 槙島聖護に向けて引いた引き金を今度は常守朱に向けても引けるかという話. 『Fate/stay night』でアーチャーが士郎を本気で殺しにかかる理由で, 正義を目指した先には自らは悪であるという認識が待っているその論理的詳細が見たい. そういうクライマックスを期待しているんだけど, 素人考えなのでプロはそれを軽く上回る展開を見せてくれることも勿論望んでいる.」

 

「昨日の展開はOP・EDで描写されている内容(誰が誰に銃口を向けているとか自分で自分と戦う人とか歌詞の内容とか)https://www.nicovideo.jp/watch/sm26527689 と実際のストーリーとの辻褄合わせで出て来たもの.

 

常守朱は幼少期に気味悪がられて虐められてきた経験を持っていそうだけど, だからと言って別に全ての人が自暴自棄になるのではなく, 状況と折り合いをつけることも出来る.

 

1つの方法は周りが間違っているので気にせず自分の道を歩むという解釈の仕方で, 骨のある人はこうなる. もう1つの方法は周りの行動は正当なもので自分は本当に虐められるべきだという解釈の仕方で, 常守朱のような人を信頼するいい人はこうなる. どちらにせよ周りのサポートが得られにくい状況では駄目になる人が多い一方, 一人で何でも出来る人を生み出しやすくなることもある. 成長の過程で最初に述べたようなステレオタイプな反応でなく上手いこと柔軟に対応出来るセンスは身につくので, どちらにせよ一見常識的な人間にはなれる.

 

生物の世界に例えれば安定な環境ではそこそこの能力の生き物が優占するが, シビアな環境では多くが死滅する一方で元よりもサバイバル能力が高い少数を選別することが出来るという話. 生物の方からも積極的に多様性を産み出してトライアンドエラーで進化を促す方向の反応をするのは後者の方で, シビュラシステムはこちらに酷似している.

 

つまり偶然で進化が起こる状況を仮定する限りはバカが大勢の優しい世界か, 厳しく多くが駄目になる中でたまにキラリと光る人が現れる世界になるので, キラリと光る人が現れかつ優しい世界というのはトレードオフの関係で両立しない(偶然的な変異が支配する状況で癌もなく全てが良い方向にデザインされる世界というのは存在しない).

 

そういう意味で常守朱はシビュラの側に立つか, 消えるしかない. 偶然が支配する世の中ではフロベニウス的なものを犠牲にして階層を越えるエタール的なものを輩出する厳しい状況か, エタール的なものを犠牲にして階層内に留まるフロベニウス的なものを優占させる優しい状況しかない. 外からdirectionalityを持って上手い按配にするのが極めて難しいことは「選択と集中」の失敗からみて分かりやすいと思う. 勘違いした人間の演出する偽物の神様ではなく, 本当の神様がエタール的なものが上がって行った人間には認識し難い先にあって, そこからdirectionalityを供与するという仮定が成り立ち, かつそれを人間の世界からでもどうにかして認識して証明することが出来ない限り, 常守朱とシビュラを分断することは出来ないという無理ゲー. 生物の世界を見ていれば全ては偶然と適応の過程で説明でき, 本当の神様が存在する兆候はどこにもないことが想像される.

 

そういう意味でシビュラを停止させ常守朱も否定し彼女のような才覚のある人物が出て来れなくなるような世界を構築するか, それともシビュラを容認し常守朱を生かす代わりに狡噛は永遠に追われ続けられある種のディストピアのままにするかの二択に普通はなる.」

 

そういうことを思い出しつつ観た映画の内容自体は,第3期のシリーズの前日譚で,第3期で常守朱が何故閉じ込められているのかが描かれたストーリーだった.シリーズはまだ完結していない.出来としては中の上,可もなく不可もなくという感じだった.常守朱が初めて本格的な意味でシビュラに対する抵抗を見せたのが鍵だった.時系列が前後したので,本作で誰が死ぬのかは最初から分かっていた.

 

物語で登場する人工知能で医療用のものを発展させたものがあったが,これはおそらく1970年代の感染症診断エキスパートシステムMYCINや知識獲得支援システムTEIRESIAS,知的教育支援システムGUIDONなど現実の世界のAIの研究の歴史をモチーフにしたものなのでポイントが高かった. AI研究はその黎明期である1960年代の人工無能と揶揄された時期の後のこの第一次停滞期の間に開発された医療用AIの研究を参考に,1980年代に知識ベースと推論エンジンに基づいたエキスパートシステムやFGCSによる第二次ブームを迎えた.しかし,それらは適用可能なルールベースを事前に準備し,その範囲内で論理的推論を実行して結論を導くので,コストがかかりすぎて創造的デザイン活動を支援するAIが求められるようになった.1990-2000年代の第二次停滞期では機械学習や深層層学習の研究が発展し,2010年代からの第三次ブームとなっている.しかし現在のAIは単独では論理プログラミングをしている訳ではなく,それはChatGPTなどのAIを試してみた人はほとんど皆分かっていると思う.それで論理プログラミングとの融合が試みられてもいるらしい.PSYCHO-PASSの舞台設定である100年後にはどうなっているか分からないが,今回の映画でもあったような人間との議論が必要だという意見は至極真っ当な方向性だった.人間は信頼性の高い情報を取捨選択して確実な所から論理展開ができるが,今のAI(と専門外の人間)にはそこまでの柔軟性はまだない.マイナンバーカードの不手際のニュースなどをみていると,それについての発言から政治家は状況を何も分かっておらず,適切な対応が出来ていないのはよく分かる.

 

映像表現としては,キャラの動きや表情がやはり “Arcane” に比べると見劣りがした.今の技術でやれるところまでやれば “Arcane” レベルのことが出来るのが分かってしまったので,厳しいところだ.ただ,PSYCHO-PASSシリーズは全体的に光の使い方が上手である種の西洋絵画みたいに受け取れるので,日本のアニメとしては高品質であることには疑いの余地はない.

 

PSYCHO-PASSシリーズは初めから現実の文学作品の引用の表現が見られるが,同じ引用でも大江健三郎やAnna Cimaのレベルになると引用が物語の内容と異なる時空間の関係を越えて共鳴し出し,物語を重奏的に表現する.似たような状況をちょっと引用するというのではない.大江健三郎の『万延元年のフットボール』などは特にそうである.

 

PSYCHO-PASSシリーズはベースにある素材はいいと思うので上の下くらいのレベルの作品にはなるポテンシャルがあると思うが,それにはクリエイター側の頑張り,それにクリエイターを自由にさせてくれるお金と時間の余裕が必要である.上の上の作品なら世界文学史に残るレベルでGabriel José de la Concordia García Márquezの “Cien Años de Soledad” などがあるが,それは何を取ってもよく出来ている.うちの家族の物語を大河ドラマ化したみたいだと思う人もいる筈である.そこまで目指す作品であって欲しい.