詩と戦争

日本では,詩と戦争の関わりとして戦時体制下の言論弾圧に対する反発としての詩が詠まれたことがある.戦争の足音が近づいた1920年代には北川冬彦「馬」や安西冬衞「春」などが詠まれた.戦争の時代の1930-1940年代には金子光晴「泡」,小熊秀雄「現実の砥石」,尾形亀之助「大キナ戦」などが詠まれた.これらは一元的なイデオロギーのもとで言論統制が敷かれた中を,検閲を掻い潜って綴られたものである.「馬」は主語さえ持たない意味の取れない一文によって読み手を不確定性の中に迷い込ませ,気味が悪くおぞましい軍を連想させる.そして,多義性の中でテクストが顕在化される.意味は保留されたまま,厳然たる存在感が示されている.時間性はなく空間的で,禍の予感が膨らむ.コンテクストとしては4年後の満州事変の勃発がある.「春」も読み手に解釈の努力を強いるものであり,生まれたテクストはより大きなコンテクストを引き込む.微視的な蝶々のイメージと巨視的な荒海のイメージが緊張を孕みつつ釣り合い,大連湾の高台からの眺めの解放感と孤絶感を表す.古典詩歌の心地よさを引き裂いて破壊し,テクストとして現前する.抑圧された声としての側面もある.「泡」は「馬」や「春」とは対照的に饒舌な語りで,言葉は漢字にならずにひらがなのまま広がる.「現実の砥石」も饒舌で自律性があり,メッセージ性は明らかだが独自のリズムで日常語がずれ,言論統制にノイズを加えた.自虐的なユーモアがありながら悶え苦しむ身体を描き,言語化を拒む痛みがある.「大キナ戦」は徹底的な言論統制のもとで詠まれた.怠惰な生活の一コマのようでメッセージ性のない散文には見えるが,「詩」ならぬ「詩」を詠むことで抵抗を表した.「便所の蠅」は行動する術のない自己の立場を象徴し,それを稚拙にも雄弁にも語る.送り仮名の間違いも言葉が壊れかけていることを表す.全体として,時代状況や言説状況を反映しつつその言説に亀裂を入れることを試み,テクストの揺さぶりがテクスチャーに影響を与えてコンテクストが再編成され,多義的になっている.