アンナ・カレーニナ

トルストイアンナ・カレーニナ』に関して簡単に感想を述べました.

 

復讐するは我にあり,我これを報いん」

巻頭のエピグラフの「復讐するは我にあり,我これを報いん」は新約聖書「ローマ人への手紙」からの引用,もしくは旧約聖書の「申命記」が元だが,直接的にはアンナが不倫の恋に走った罰として神に罰せられるべきだという解釈が出来る.だが小説家は神ではなく,トルストイはアンナの罪は認めながらもその情熱のドラマに引き込まれ,「復讐するのは神の仕事だが,小説家の自分の仕事ではない」としたのかも知れない.

 

トルストイの葛藤

トルストイが抱え込んでいた矛盾として,一方では自ら組み立てた倫理的な思想の元に一元的に生を統御しようとする志向があり,他方ではそういう倫理に還元出来ない生の多面的な快楽がある.レーヴィンとキチイの清純な愛と,アンナとウロンスキーの肉欲の愛である.それらが緊張をはらみながら作品を作品として成立させている.古代ギリシャの詩人アルキコロスは「狐はたくさんのことを知っているが,ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」としたが,イギリスの政治思想家バーリンの言葉を借りればトルストイは「自分のことをハリネズミと思いたがっていた狐」ということになり,一つの原理と多彩な美,快楽との間の葛藤がみて取れる.

 

映画化

1927年のサイレント映画アンナ・カレニナ』ではアメリカ市場向けでハッピーエンドが,海外市場向けでは原作に忠実なラストが用意された.1997年のバーナード・ローズ監督の映画『アンナ・カレーニナ』ではアンナとヴロンスキーの不倫,レヴィンとキティの関係が対照的で,原作の意図に忠実だった.映像も当時のロシアを彷彿とさせた.2012年のジョー・ライト監督の映画『アンナ・カレーニナ』は「美しいが崩れ落ちそうな劇場」という舞台劇風の造りで,バレエ的なアプローチが取り入れられ,視覚的に様式化されていた.

 

村上春樹『ねむり』の主人公との関係

村上春樹『ねむり』の主人公「私」と,作中で「私」が読むレフ・トルストイの『アンナ・カレーニナ』に登場する女性たちとの間では,前者の母/娘/妻としての側面が後者に表象されている.『ねむり』の語り手であり,息子を持つ専業主婦の「私」が直面する母性愛の揺らぎと沈黙,そして彼女が迎える暗い結末は社会が敷いた暗黙の規範から逸脱してしまった女性のその出口のない苦悩と恐怖とを表しており,現代社会のアレゴリーとして機能している.