【追記あり】実験医学序説

クロード・ベルナール実験医学序説』(岩波文庫)を読みました.19世紀までに発展して来た科学的な「観察医学」から,対象に対して適切な対照に基づく比較による操作実験を導入した「実験医学」への脱皮を促した古典です.純粋に医学的な内容は勿論古く,そもそも批判的に読むテキストではありますが,少しだけご紹介します.

 

そもそも「観察医学」から「実験医学」への脱皮が何故促されるのかについては,

 

「今や医学は,どこまでも観察科学でいるべきか,それとも実験科学となるべきかという問題が残っている.もちろん医学は,簡単な臨床的観察から始まらなければならない.ついで,生物はそれ自身調和的一体であって,大宇宙の中に含まれている小宇宙を形成しているから,生命は分割することのできないものであり,したがって,健康或いは病的の生物が,全体として我々に示す現象を観察するのみに止まり,或いはまた観察した事実について推理するだけで満足していなければならないと主張することができた.しかしながら,もしもこのように制限されねばならないということを承認し,また,医学は消極的な観察科学に過ぎないということを原則として提出するならば,天文学者が遊星に触れることができないと同様に,医者も人体には触れてはならないということになろう.そうなると,通常解剖学,病理解剖学,また,生理学,病理学,及び治療学などに応用される生体解剖などの全部が,すべて全く無用となるわけである.このように考えられた医学は,予後の確定と多少有益な衛生的規則を定めるのに資するのみであって,積極的医学,即ち真実な科学的治療学の否定である.」

 

に現れています.臨床的な知見を得るのは勿論ですが,それだけでなく何らかの操作による実測,比較と対照で情報を得た方が信頼性の高く深い情報が得られるのは当たり前で,それを否定するような風潮に警鐘を鳴らしたものです.「何かよく分からない風邪」を何時迄も「何かよく分からない風邪」のままにしておくのか,そうでないのかの違いです.この精神は,次の部分にも現れます.

 

「したがって実験家とは,一般抽象的意味において,彼が望んでいるところの知識,即ち経験をひき出すために,一定の条件において観察的事実を援用したり,或いは喚起したりする人のことである.観察家とは,観察的事実を捉えて,これらの事実がはたして適当な方法で十分実証されたものかどうかを判断する人である.これがなかったならば,たとえ事実の上に立っている結論でも,確固たる基礎を欠くことになるであろう.実験家は同時に良い観察家でなければならないのはこれがためであり,また実験的方法においては,実験と観察が相ならんで進まなければならない理由でもある.」

 

Twitter上では同じような意見を持っている人が繋がりのクラスターを為してお互いの意見を増強し合い,しばしばその特定のクラスターのみで誤った結論に陥ることがあります.こういうことに対しては,

 

「自分の学説或いは自分の構想のみを偏重する人は,ただ単に発見をするのに不適当であるのみでなく,また至って悪い観察をするのである.彼は必然的にある先入観をもって観察する.また実験を組み立てたときにも,その結果の中から自分の学説の確証だけを見ようとする.このようにして彼は観察をゆがめ,極わめて大切な事実をも,自分の目的に副わないという理由をもってしばしば無視する.実験をするのは構想を確かめるためではなくて,これを検査するためであると,我々が前に言った理由はこれである.換言すれば,実験の結果はあるがままに,予想しない事実も偶然の事故もすべて総括して承認しなければならない.

同時にまた自分の学説を余りに信用する人は,必ず他人の学説を十分に信用しないということになる.このとき他人を軽蔑するこの人の脳裡に宿っている思想は,他人の学説の欠点を発見し,これに反対しようと努力する思想である.科学にとって不都合なことは同様である.彼は真理を求めるために実験するのではなくて,他人の学説を打破せんがためにのみ実験するのである.彼らは同様にしてまた不良の観察をする.何となれば彼は実験の結果の中から自分の目的にかなったもののみを採用して,関係のないものは棄てて顧みず,さらに彼が打ち倒そうと目ざしている思想を裏書きするような事実は,すべて注意深く遠ざけるからである.このようにして人はこの二つの反対の道によって結局は同一の結果,即ち科学及び事実を誤るに至るのである.」

 

「検査」の結果の解釈にはいろいろあるでしょうが,それによる事実確認を怠っている人というのはしばしばこのような事態に陥りがちですね.情報を集めてない訳ですから,よく誤った解釈をしがちです.観察ばかりではスコラ哲学的になってしまうことに対しては,

 

「我々はすでに歴史によって,このスコラ哲学的方法の無能を知っている.科学がはじめて飛躍したのは,書物の権威に代えるに,次第に完成した実験的方法の援助をかりて,自然界において精密に定められた事実の権威を以てしたときである.ベーコンの大功績はこの真理を強調した点にある.私一人の考えによれば,今日の医学を再びかの昔の陳腐な記録の方に引き戻すということは,スコラ哲学に向って退歩し立戻ることであり,これに反して実験室の方へ,また疾病の実験的分析的研究の方へ導くことは,真の進歩の道を歩んでいるものであると思う.即ち実験的医学の建設に向って歩んでいるものであると思う.私が或いは教育により,或いは研究によって絶えず主張しようと努力しているのはこの深い確信である.」

 

に現れています.ベルナールの思想の特徴としてdeterminism(註:これは英語,フランス語ではない)の称揚がありますが,そのことに関しては

 

「我々の理性は,すでに決定されているものと,まだ決定されていないものを科学のうちに包含することは許すが,決定することのできないものの存在をば決して承認しないということを我々はすでにのべた.なぜならば,これはとりもなおさずあらゆる実験科学から絶対に排斥すべき不可思議,幽玄,超自然等の存在を許すことにほかならないからである.その結果,一つの事実が我々の前に提供されるとき,そのデテルミニスムを知ることによってのみ,この事実は科学的価値を生じるということになる.荒削りの事実はまだ科学ではない.同様にして,そのデテルミニスムが合理的でない事実も科学から排斥されねばならない.実験学者は自分の構想をば事実の規範のもとに置かねばならぬとしても,自分の理性までもそこに置かねばならぬとは私は思わない.なんとなれば,その場合には彼は唯一の内的規範の光明である理性を失ない,必然的に原因不可知論,即ち幽玄,不可思議の領域に陥るに相違ないからである.なるほど科学の中には,今なお理解しがたい多数の荒削りの事実がある.私はこれらの一切の事実を断固排斥しなければならないと結論するつもりはない.ただどこまでも荒削りの事実として将来を期待しつつ,保留しておくべきであって,科学の中に直ちに取り入れるべきではないと言いたいのである.即ち合理的なデテルミニスムによってその存在条件が確立するまでは,実験的推理の中に取り入れるべきではないと言おうと思うのである.そうでなかったならば,実験的推理をするに当って,ことごとに足をとめさせられるか,或いは必然的に不合理に陥るであろう.」

 

にも現れています.例えば偽陰性という概念は,検査した対象が実際は確実に陽性であることを知っていないと成り立ちません.偽陽性の場合は,検査した対象が実際は確実に陰性であることを知っていないと成り立たないので証明はもっと難しいです.結果が偽陰性かも知れない,偽陽性かも知れないと疑うのはいいのですが,一番的中率が高いものに対してそれが偽陰性である,偽陽性であると断定するのは普通,無理でしょうね.誰が言っていても,そうなると思います.

 

上に挙げたような記述まで批判的対象になるとは私は思わないのですが,どうでしょうか.

 

追記あり】現在では,ウイルスが存在したか否かの定義は最も感度・特異度の高いPCRの結果により行われる為,ウイルスを検出する文脈でPCR偽陰性偽陽性は定義出来ず,そういう用語を使うのは学術的に誤っているそうです.そうでなくて,「検出出来なかった」などと言う言葉を使うそうです.そうでないとPCRの結果が偽陰性偽陽性を確かめる為にはウイルスが確実に存在・非存在の状態であることを確認する為に最も感度・特異度の高いPCRを別に行う必要があり,それを確認する為に最も感度・特異度の高いPCRを別に行う必要があり...と再帰関数が止まらなくなる馬鹿馬鹿しい状況になります.誰が何を言っても,現在は学術的にウイルス検出におけるPCR偽陰性偽陽性は定義出来ないですし,脇田先生を始めそのような事情を了解した発言を専門家の方は取られています.