羅生門評

黒澤明映画『羅生門』は芥川龍之介小説『藪の中』が原作である.この作品のキーは「視点」である.それはカメラワークに最初から現れ,山の中を歩く杣売りが前方の茂みを掻き分けて行く時の視点,下から木の梢を見上げる視点,山の傾斜の上から下を眺める視点,さらには渓流から上方の丸太橋を眺める等,最早人間ではなく魚や両生類のような視点も見受けられる.

 

このような視点の魔術により,ある事件という客観的事実は一つしかないはずの事象を当事者三人が全く別の事象として捉えていたことが語られる.多襄丸は己が強くて女性も惚れる程のものだと語り,武士の妻は後ろめたさを語り,武士の霊(とされる者)は嫉妬と無念を語る.しかし,杣売りの語る事実(に一番近いとされるもの)は情けなく,当事者は自分に都合の良い事実があったと思い込み,手前勝手な言い訳をしているようだ.さらには杣売りまでが客観的な証拠を脅かしているのである.「正しい人間なんているのか.みんな自分でそう思っているだけじゃないのか.」という下人の台詞がまさに「藪の中」に皆が陥るテーマとなる.

 

しかし,これらの混沌とした人間模様の外にも「客観的事実」というものが確かに存在することが暗示されている.それは様々な客観的証拠や太陽の存在で暗喩され,陽の光は確かにことの成り行きを全て見ている.武士の妻が見る太陽はぼやけて客観的事実が疎かになることを表しているが,太陽側は太陽系をその重心を原点に座標軸に取ればほぼ不動なので,何某かの不動の真実は存在する.

 

しかしそれを暴き出す神のような存在はなく,あるのは遠藤周作『沈黙』のような沈黙した主,ポール・ボウルズ『極地の空』のようなシェルター的天空から見つめるだけの存在である.ブアレム・サンサール『ドイツ人の村-シラー兄弟の日記』では語り手となるシラー兄弟が共に自らの意見をただ開陳するだけで「信頼できない語り手」となり,自分たちの父親の真実は結局闇に消えて行くことが示されている.「信頼できない語り手」はまさに『羅生門』の登場人物の語り手のようで,真実が分からなくてもそれは確かにあるという示唆は『羅生門』と『ドイツ人の村』で共通しているように思える.そう言った意味で,『羅生門』のテーマは地域や時代を越えた普遍性を検非違使と化した視聴者の視点を介して今尚問うている.最後に雨が弱まって陽の光が射すのもそういうことを暗示している.