『盗まれた手紙』評

エドガー・アラン・ポー『盗まれた手紙』について短い評論を書いてみました.

 

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この作品における「見ることと同一化すること」という観点に注目すると,まずデュパンが「考え事をするんだったら闇の中のほうがいい」と言って,ランプをつけないシーンが引っかかる.ここでデュパンは,「見ること」ということは,その際の物の見方,認識の仕方に伴う偏見を伴うものであり,事件の解決のためにあらゆる可能性を想定するということから見れば甚だ邪魔なことであり,それならいっそ最初から見えていない状況の方が考えるのには相応しいということを含意している.いかなる「見ること」による「同一化」にも争っている姿勢である.その線で,その後もその個人特有の「見方」に引っ掛かって失敗するエピソードが続く.まずデュパンの台詞の直後に警視総監が「また,変なことを言うね」と言う.「ぼく」は警視総監の場合は自分の頭で理解できないことはなんでも「変な」で片付ける癖があることを指摘し,警視総監の凝り固まった見方では周りは「変な」ことばかりになることを述べている.警視総監の捜査ルーチンや「見ない者」としての国王への同一化が取りこぼすことはたくさんあると言うのだ.それがこの物語での「盗まれた手紙」という変な話へのプロローグになる.一方,大臣の「見方」は強かで,貴婦人の手紙の重要性を瞬時に見抜き,見かけ上はその手紙と似ている手紙をその時は貴婦人と大臣以外にはその重要性を理解していない手紙と公然とすり替えることに成功している.つまり,その時はその手紙の重要性に同化出来ているのは貴婦人と大臣だけで,だからこそ互いの目の前でそのすり替えが行われたことになる.同時に,互いにそういう同化をしていることを互いが知っていることになる.警視総監のルーチンワークからは手紙がまだ大臣の館にあり,そこから出ていないことまでは状況証拠から正しく推論は警察も出来ている.しかし,大臣も警視総監が動いていることは分かっているので,尻尾を掴ませないように手紙の中身を他の誰も興味を惹かない入れ物にすり替えて館内の人目につく所にわざと置く.これは警視総監が想定していた所の見つかりにくい場所ではないので,警視総監はこの手紙への同化に失敗している.大臣は警察の「見方」に同化し,それを利用して出し抜いているのだ.デュパンはそれを尻目にまず貴婦人の立場に同一化した大臣の「見方」,物の考え方に同化することを試み,そこから類推すると妙な不協和音的組み合わせの状況に注目し,手紙を見つけてそれを大臣の「見方」に沿った別物の手紙とすり替える.その際,デュパンが発見したのだということを大臣が後から分かるようにわざと二人の間特有の「見方」としての文章を挟み込んでおく.今度はデュパンが大臣との同化により,大臣を出し抜く.大臣は詩人で数学者だが,そのことは全ての偏見から解放されて相手を出し抜くことを必ずしも保証してはいなかったことが,デュパンの言葉から分かるのだ.