"HELLO, OUR STADIUM" <- ???

今日はこんな記事を読んだ.

 

https://www.newsweekjapan.jp/rochelle_k/2019/12/hello-our-stadium_2.php

 

選択と集中の極致で, 国の顔である筈の国立競技場で, “Welcome to our new stadium” とすればいいところを, 奇妙な英語表現 “HELLO, OUR STADIUM”… 意味がよく分からないし, 内輪ネタか自画自賛でもしているかのような奇妙な表現で, 中学一年生でもこんな英語を使わないのは知っている筈… その他にも “The garden of information” -> “Joho no Niwa”, “Please push the button below” -> “PLEASE PUSH THE UNDER BUTTON” など, 簡単な単語も訳せなかったり語順や語彙が出鱈目で, 国の事業というのは一体全体どうなっているのだということの一例だった. 勿論これだけならまだいいのだけれど, 同様の結論に達する事案を実に様々な文脈で毎日入れ替わり立ち替わり聞かせられるので, もうたまらん… まるで「人物重視」で基本すら出来ないルサンチマンをトップに上げて上が事案のチェック機能を完全に喪失してでもしまったのかしらん.

 

ところで “Fate”なり『物語シリーズ』なり, 最近自分に厳しいゲームやラノベ, アニメが流行っているのだけれど, 自分に厳しいことは通常なら自身の向上にとっては正に作用する筈. ところが, 周囲が余りにも未成熟だと, 何が適切で何が不適切なのか判断出来なくなるので, 厳しくされている自分よりもさらに圧倒的に非合理的なことが適切だと思われて自身が非難され, 状況はさらに悪いことに. 自分に厳しいということも周囲のレベルに応じて状況悪化に作用してしまうこともある, というのが最近の「日本文学」の帰着点. こうなるともう, 当時は勝手な思い込みで無茶苦茶だったイギリスに対するガンディーのように「非暴力, 不服従」という戦略を取るのが正しくなって来る.

 

暴力的な抵抗は状況を泥沼化させるのでしない. そして服従しない人の割合を一定数確保することで, 先方から妥協点を提出させる, というストライキみたいなことをし, その一方で自画自賛の正のフィードバックがかかっている人たちを切り離すために, 自分たちの情報はもう何も提供しない, という戦略が妥当に思えて来る. 服従してしまうと上から要求される労働コストのインフレが起こる一方で雇用も賃金も減少する, 労働財市場のスタグフレーションみたいになるので, 何もしないというのが適切であり得る. こういう社会状況なのでそれに呼応する文学が生まれるのか, 現実が文学を模倣するのかは分からないけど.