小説の分析

小説の分析に関する短い文章を4つ書いてみました.

 

カフカ『変身』の解釈

カフカの『変身』には,最初にカフカ自身がベンヤミン的な「物語文学」として考えていたように,ユーモラスな孤独感や不安感のある文学としての解釈がある.一方,後世において一般化したように,活字として暗い切迫感のある,社会から疎外され孤立した人間の悲惨を描いた文学としての解釈もある.サルトルカミュは後者の解釈を「無益な受難」として実存主義的にとった.そしてロベールは孤独の本質性を,ブランショは「死」の文学としてのラディカルさを読み取った.時代が降ると,アンダーソンは19 世紀から20世紀にかけての文化的状況と結びつけ,伝統的な「美」の概念を転覆させて平凡な市民の保守性に反逆した前衛芸術的なものとして捉えた.多和田はその翻訳で「けがれの感覚と罪の意識」を強調している.

 

井伏鱒二山椒魚』の結末

一般に知られているバージョンでは絶望的な閉塞状況を共にする2個の生物の間の憎しみではない新たな絆を表した.そこでは「よう」を多用して性急な表面的断定ではなく苦悩が滲み出される劇的効果があった.一方,結末をカットしたバージョンではそのようなほのぼのとした味わいが無くなり,悲劇性が強まっている.

 

セルバンテスドン・キホーテ』の狂気の例

田舎の旅籠屋の女将をやんごとなき貴婦人と思い込んで口上を述べ立てるシーンからは,女将がドン・キホーテは何やら調子がおかしいが浮世離れした荘重さも漂わせている印象を受けたというような意味での「狂気」である.

 

各種小説論雑感

ベンヤミンは口承文化としての「物語」に代わって文字文化としての「長編小説」が登場し,メルヘンや伝説は「短編小説」に代わられたとした.三島は長編や短編の区別を否定している.ベンヤミンはまた即効性のある「情報」と,効果が持続する「物語」を対比させた.バフチンは小説を「言語的多様性の小宇宙」とし,「複数の社会的世界,諸々の声および諸言語」を描き出すとした.また,そのような混成物から「対話」が生まれるとした.アウエルバッハは『ドン・キホーテ』以前の文学では愚かさは卑俗なものだったが,以後は賢いと同時に愚者でもある存在が描かれるようになったとした.バルトは最終的な意味の保証者としての作者に死を宣告し,テクストは多様な読みに開かれたものだとした.三島は「小説は,生物の感じのする不気味な存在論的側面を,ないがしろにすることができない」ともした.